土方歳三は、母の顔を知らない。

 彼が母を見た時、母は既に身の内に巣くった咳嗽によって喰い荒らされていた。喰い荒らされて顔を失っていた。

 咳嗽は人を喰う。幼い土方は、母の顔と引き換えに、ただそれだけを学んだ。



 幼い頃、土方がよく見た夢がある。母親の部屋に入ろうとした時の夢だ。

 母は労咳を患っていた。物心ついた頃には既に褥中の人だった。母の部屋に立ち入ることは禁じられていたから、彼が母と共に過ごした時間は皆無といってよい。顔さえ覚えていない。

 それでも、母というものを慕う心はあったのだろうか。母に会いたくて、部屋に入ろうとしたことがある。

 その時のことがよほど強烈に印象に残ったらしく、爾来夢に見るようになった。このことは誰にも話していない。弟分の沖田総司にさえ、聞かせていない。

 小僧時分は見る夢見る夢そればかりだったが、そのうちぱったり見なくなり、その後一度だけ見た。夏にしては吹き込む外気が心地良く、つい執務中に居眠りをしてしまった時のことだ。

 咳の音が聞こえてきた。

 その時彼は、すっかり日の落ち切った庭で遊んでいた。そちらを見遣ると、障子が室内の弱い明かりを透かして、人影を映し出していた。

 俯いて咳き込む姿。母が長らく臥せっていることは聞かされていたから、それが誰であるのかはすぐに分かった。

 ずっと生き別れ同然だった母が、そこにいる。思わず駆け寄り、障子に取り付いた。しかし、

「来てはいけませんよ」

 障子越しにも我が子の気配を感じ取ったのであろう、母はそれを制止した。

「開けては……いけませんよ」

 その時、不意に足元から湿りを含んだ生温かい気配が上ってくるのを感じた。

 下を見る。目に映ったのは、血溜まり。障子の向こうからどろりと流れ出してくる。

 「向こうを見てはならない」。瞬時にそう悟った。それと同時に、なにか見なくては済まされぬような恐れをも感じていた。それに駆り立てられるまま、障子に手を掛けて――

 夢はそこで途切れた。目覚めると、うっかり居眠りをした自分をからかう沖田がいた。

 夢の続きを思い出そうとして、やめた。どうにも思い出せそうになかったし、それより気にかかることもあった。思い返すと、咳の音だけが妙に生々しく――まるで現実のものであるように聞こえていた気がしたのだ。

 側にいるのは沖田のみである。沖田に質すと、「土方さんの夢でしょう」と答えて綺麗な笑顔を返してきた。

 それきり夢は見ていない。その続きも思い出せない。ただその日以来、風邪っ引きのくせに外遊びをしたがる沖田を叱ることが増えた。沖田は相変わらず土方をからかっては笑っている。

 風のよく通る日だった。



 その日土方は、御陵衛士配下の浪士群による新撰組襲撃を退け、事後処理にあたっていた。

 隊士達の報告を聞き、指示を下す。土方も周囲も慌しく立ち働く中、不意に耳に引っかかる音が聞こえてきた。

 咳の音だ。

 朧げな記憶に残る、母と同じ咳。かすかに、だが確かに耳に届いたその音に、土方だけが気付いた。

「副長? 如何なされました」

 異変に気付いた隊士が呼びかける。だが土方の耳には、咳より他は入らない。

 咳はすぐ側の一室から聞こえてくる。その音に呼び寄せられるまま、蹌踉と歩を進め、程無く土方はその部屋の前に立った。

 障子には人影が映っている。それは夢と寸分違[たが]わぬ母の影で、ああ自分はあの夢を見ているのだと、ぼんやりと考えた。

 だが、見ているのは夢ばかりではない。最前から聞こえてくる音は明らかに現実のもので、しかも日頃聞き馴染んだ声だ。聞けば誰のものであるか分からぬはずがない程に。

 もはや否定できなかった。咳いているのは、沖田総司。いつもころころと少女のような笑い声を立てる、あの弟分だ。

 ――おい、寒い中出歩いてんじゃねえよ。

 ――お前薬出されてんだろ。ちゃんと飲んだのか?

 今まで幾度も脳裏を掠めたはずの、けれど目を逸らし続けてきた恐怖。それが今、ひしひしと、不可避の現実として迫ってくる。

 障子に手を伸ばした。心臓の跳ねる感触が、いやに神経に障る。

「来てはいけませんよ」

 戒めの声が聞こえる。

 夢をなぞるように視線を落とす。予期した通り、障子の下から血溜まりが這い出てくる。

 その縁の一部がぷくりととび出した。かと思うと、突端がいきなり崩れ流れて、まるで意思を持つ生物のように床を進み、土方の爪先を汚そうとした。

「開けては……いけませんよ」

 だが、土方は耐えられなかった。向こうを見ずにいることに――彼の恐怖が現実のものである可能性に、脅かされ続けることに。

 開いた障子の向こうに、母が突っ伏していた。その床[とこ]に点々と散らばる赤い斑痕を見てようやく、自分が金気混じりの生臭い匂いを嗅いでいることに気付いた。

 それは、覚めながらの夢。土方の目には、あの日中絶されたかつての夢の続きが映っている。

 夢中の母が、顔を上げる。ようやく土方が見ることができたそれは――彼の記憶そのままに、知覚から空ろに脱け落ちた――一瞬きにも満たぬ間に、沖田の顔になった。

 次の瞬間、母が――母の形を模した沖田が、胸の中身を全てぶちまけた程の血を喀いた。

「……みな……で、くだ……さ……」

 苦しい呼吸の下から、消え入りそうな声で懇願する。

「みない……で……っ」

 だが、体が動かない。目を逸らすことも、閉じることさえできない。

 幼い頃に学び覚えた知識を、今更のように思い出す。

 咳嗽は人を喰う。

 誰にも知られぬまま、人の中に侵入し、その内側をゆっくりと蚕食する。喰い散らされた臓腑が血を垂れ流す頃にはもう、犠牲者を救う手立てはない。

 咳嗽が沖田を喰い千切る。そのたびにごぶりと血が溢れ出す。その末路が一つしかないことを、土方は既に知っていた。

 それは、絶望。

 そして、土方という器に収まりきらぬ膨大な絶望は、徐々に彼から正気を追い遣りつつあった。

 錯乱する意識の端で、ふと考えた。

 ――嗚呼、総司はどんな顔をしていただろう。

 最後に、自分の口から意味を成さぬ喘ぎが漏れていることだけが、辛うじて分かった。





<おまけ>

 市村鉄之助は、主の部屋の戸を開けた。明かりのない部屋の中にわずかに光が差し、中にいる人物の影を薄ぼんやりと浮かび上がらせた。

 うずくまるように屈めた背中。市村の主、土方歳三だ。

「副長」

 呼びかけたが返事はない。思えば、沖田総司亡き後、土方の姿といえば、この丸めた背中をしか見ていないような気がする。

「今日、四十九日だそうなんですよ……沖田さんの」

 決して豊かとはいえぬ語彙の中から必死に言葉を選って、無言の背中に語りかける。

「忘れろなんつっても無理に決まってますけど、でも、何てーか、その……」

 「前向きに」「元気を出して」「ふさぎ込んでいたって沖田さんは喜ばない」。思いつく台詞はどれも空々しいばかりで、言葉に詰まった。

「覚えてねえ」

 暫時の沈黙を土方が破った。市村にとっては思いがけない言葉で、その意味をはかりかねた。

「どうしたって、思い出せねえんだ。あいつのこと。笑ってるとこしか。

 苦しかったはずなのにな。実際、目の前で苦しんでて、それを見てたのに……」

 沖田の死後、土方はひたすらに沖田を追憶し続けてきた。その全てを思い返そうとしていた。

 だが、たかが数ヶ月前に目の当たりにしたはずの血を喀く沖田の顔が、どうしても思い出せない。その記憶だけが、ぽっかりと、欠け落ちたように無くなっている。

 もし覚えていたなら――土方は、それに耐えられなかったはずだ。だから忘れた。己を守るため、土方の心は沖田の記憶を切り捨てた。

「俺は、覚えていてやれなかった」

 そうしてまた一つ、後悔を重ねる。夜毎繰り返す幼子の悪夢のような、果てのない後悔を。   inserted by FC2 system